「ママ、遊ぼうよ」って言われるのが、ちょっと怖い日がある
「子どもと遊ぶの、苦手なんです」って…
なかなか口に出せる人、いない気がする。
だって、遊ぶ=愛情表現だと思われてるから。
一緒に遊んであげられない私は、
「ちゃんとした親じゃないのかも」って、何度も思った。
おままごと、公園、戦いごっこ…正直、しんどい
おままごとで永遠に「はい、どうぞ〜」と言われるあの時間。
公園で「見て見て〜!」に笑顔で返すのを、20回以上繰り返すあの感じ。
室内での“戦いごっこ”でひたすら倒され続ける30分。
正直、しんどい。
体力的にも、精神的にも。
でも子どもは「楽しいね」「またやろうね」ってキラキラした顔で言ってくる。

遊ぶのが苦手=愛してない、ではない
もちろん、子どもは可愛い。大好き。
でも「遊び」って、思った以上に“演技力”と“余裕”がいる。
本音では「家事やらせて…」「ちょっとひとりにして…」って思ってる日だってある。
それでも、子どもの前では頑張って笑ってる。
でも、そんな自分に限界を感じるときがある。
「私、向いてないのかな」って、自分を責めそうになる。
それでも、そばにいることだけはやめなかった
たとえば、一緒に遊べなくても、
横で見守ってたり、絵本を読んであげたり、お茶を入れてあげたり。
「遊べない=何もしてない」じゃないって、
最近やっと気づけた。
そばにいて、話を聞いて、夜はぎゅっと抱きしめる。
それも立派な“関わり方”だって、今なら思える。
できない自分に○をつけていい
「うちの子は、公園でずっと遊んでるのが好きで…」
「おままごと1時間くらいやってくれるんです〜」
そんな話を聞くたびに、自分だけみんなみたいに子供に付き合いきれないダメな親みたいで落ち込んだこともあった。
でも、得意・不得意があるのは当たり前。
料理が得意な人もいれば、片付けが苦手な人もいる。
だから「遊びが苦手な親」も、全然いていいと思う。
まとめ:できる範囲の愛情表現で、十分
無理して“理想の親”にならなくても、
ちゃんと向き合おうとしてる時点で、もう十分頑張ってる。
苦手なら、無理に頑張らなくていい。
そのかわり、自分なりの方法で子どもと関わる。
「一緒に遊べない日があっても、
あなたのことは、ずっと大好きだよ。」
そう思えているなら、それが“ちゃんとした愛”なんだと思う。

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